ページ1
|
ページ2
|
ページ3
|
ページ4
『
造営帳
(
ぞうえいちょう
)
』という記録によれば、
大工
(
だいく
)
の
延
(
の
)
べ人数は約170万人で、その他の仕事も
含
(
ふく
)
めると約453万人と
記
(
しる
)
されています。この中には
絵画
(
かいが
)
・
彩色
(
さいしき
)
・
漆
(
うるし
)
・
金具
(
かなぐ
)
・
屋根
(
やね
)
の工事の人数は数えられていないので、
総
(
そう
)
延べ人数はこれをはるかに上まわる650万人と
推定
(
すいてい
)
されます。
甲良
(
こうら
)
宗広
(
むねひろ
)
は日々数千人の大工を
指揮
(
しき
)
してこの大工事をやりとげたのです。
金568000
両
(
りょう
)
、銀100
貫目
(
かんめ
)
、米1000
石
(
ごく
)
で、全部
幕府
(
ばくふ
)
の
支出
(
ししゅつ
)
でまかなっています。大工の
日当
(
にっとう
)
(一日の
給料
(
きゅうりょう
)
)を
基準
(
きじゅん
)
に
現在
(
げんざい
)
の
金額
(
きんがく
)
に
置
(
お
)
きかえると、これは約2千
億
(
おく
)
円にもなります。
東照宮
(
とうしょうぐう
)
のつくりかえにあたって
家光
(
いえみつ
)
は、
経費
(
けいひ
)
はいくらかかってもよいと命じていましたが、「総工費はおよそ100万両」との
報告
(
ほうこく
)
を聞いて、「思ったよりも安くできた」といったそうです。家光の東照宮のつくりかえにかける
意気込
(
いきご
)
みが伝わってくる話です。
このように
偉大
(
いだい
)
な仕事をなしとげた甲良
豊後守
(
ぶんごのかみ
)
宗広は、
正保
(
しょうほう
)
3年(1646年)、74歳でその
生涯
(
しょうがい
)
を閉じました。
それから約330年後の昭和52年、甲良宗広の
故郷
(
ふるさと
)
滋賀
(
しが
)
県
(
けん
)
甲良町
(
こうらまち
)
と日光市は、宗広の
業績
(
ぎょうせき
)
をともにたたえ、今に生きる者の手本にしようとの願いをこめて、
姉妹
(
しまい
)
都市
(
とし
)
となりました。そして、長くその
偉業
(
いぎょう
)
をたたえるため、山本
修二
(
しゅうじ
)
氏の作による
銅像
(
どうぞう
)
を日光東照宮と甲良町役場にそれぞれ
建
(
た
)
てたのです。
甲良町には甲良豊後守記念館が建てられています。