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三代将軍徳川家光さんだいしょうぐんとくがわいえみつは、尊敬そんけいしていた祖父そふ家康いえやすのために日光東照宮をより立派なものにしようと考えました。ちょうどその時期、日光東照宮が建てられて二十年目と家康の二十一回忌にじゅういちかいきがあり、これに合わせて建て直しをすることにしました。
声のかかった宗広は、京都に徳川家康の屋敷やしき建設けんせつを任されたことをきっかけに初代将軍しょだいしょうぐん家康、二代将軍秀忠ひでただ、三代将軍家光との交流があり、3人の将軍とも宗広の実力を認めていました。
宗広は設計せっけい建築けんちく彫刻ちょうこくのどれをとっても技術者として最高の力を持っていました。また、宗広の周りには、同じようにすぐれた技術を持った大工が数多く集まっており、最高の技術・芸術集団としても有名でした。特に彫刻に関しては、すばらしい力をもっていて、東照宮のつくりかえを任された大きな要因よういんといえるでしょう。


作事方さくじかた」とは建築の仕事を指す言葉で、「棟梁とうりょう」「大棟梁だいとうりょう」とは建物をつくる大工さんの中心となる人のことを言っています。この言葉は昔から使われていました。宗広が任されていた「幕府作事方大棟梁」という仕事は、幕府の組織そしきの中の仕事上の地位を指しています。大棟梁は、お城や神社の設計をしたり、作ったり、修理しゅうりをしたりする人に与えられた最高の地位でした。



東照宮をつくりかえるときには、宗広は中心となって活躍し ていましたが、その子どもやまごも東照宮つくりかえの時に活躍 していました。 長男の宗次むねつぐ、次男の宗久むねひさそして孫の宗賀むねよしの名前が記録に残っています。その後も宗次が大棟梁の役職をぐなど、甲良一族こうらいちぞくは、建築の世界をリードしていきました。

宗広がえがいたこいの絵