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参考資料さんこうしりょう
戊辰ぼしん戦争せんそう関係かんけいし日光を守ろうとした人たち

討幕軍とうばくぐん天皇てんのう・新政府側せいふがわ軍勢ぐんぜい,当時は官軍かんぐんばれた。)

板垣退助いたがきたいすけ 土佐藩とさはん隊長たいちょうで,日光方面討幕軍の総督そうとく責任者せきにんしゃ)。きゅう幕府軍ばくふぐんの日光退去たいきょ条件じょうけん戦闘せんとうを止めて日光を戦火せんかから守った。
たに干城たてき :討幕軍の軍監ぐんかん。のちに陸軍中将りくぐんちゅうじょう農商務大臣のうむしょうだいじん慈立じりつ道純どうじゅん(日光山僧侶そうりょ)と今市瀬川付近せがわふきん視察中しさつちゅうに会い、直接ちょくせつ話をする。進撃しんげき攻撃こうげきを進めること)を待ってほしいといううったえに対し、旧幕府軍が日光山を退去することをもとめた。

きゅう幕府軍ばくふぐん徳川幕府とくがわばくふを守る立場の軍勢)

大鳥圭介おおとりけいすけ :前幕府の歩兵奉行ほへいぶぎょう。日光山につどったきゅう幕府軍の総督。二人の僧侶(慈立じりつ道純どうじゅん)から討幕軍側の話を聞き旧幕府軍2000名を引きれ,日光山でのたたかいをさけ会津あいづへ向かう。
松平太郎まつだいらたろう :旧幕府の陸軍奉行りくぐんぶぎょう軍資金ぐんしきん3千両と医師いし大鳥おおとりへ引きわたす。江戸えどへ帰る途中とちゅう、討幕軍と談判だんぱん(話し合い)をするが失敗しっぱいしている。
板倉勝静いたくらかつきよ 前幕府老中ろうじゅう宇都宮うつのみや英厳寺えいげんじ幽閉ゆうへい(人をある場所にめて外へ出さないこと)されていたが、宇都宮が落城らくじょうし、寺もけたため、日光にのがれていた。大鳥にたいして、日光で戦争せんそうをしては家康公いえやすこうに対しておそれ多いのでどうか引き上げてほしいともうし入れる。

日光山に関係のあった人々

厳亮げんりょう 飯塚いいづか現小山市げんおやまし)の台林寺だいりんじ住職じゅうしょく。日光山忍性坊にんしょうぼう弟子でし幼児期ようじき日光山中でそだった。板垣退助いたがきたいすけ命令めいれいにより日光山へ話をしに行く。
慈亮じりょう 厳亮げんりょうより板垣退助の話を聞き,一山のそうを集めて話し合い、一山の長老ちょうろう妙道院道海みょうどういんどうかいと共に旧幕府軍の大鳥圭介にこの話を伝えた。
安居院慈立あんごいんじりつ
桜本院道純さくらもといんどうじゅん
:日光山の僧。大鳥の了解りょうかい決死けっし覚悟かくごで今市の討幕軍のもとに向かった。慈立じりつ35さい道純どうじゅん38歳であった。
五十嵐真之介いがらししんのすけ
日光学問所学頭にっこうがくもんじょがくとう
昌平校しょうへいこう教授きょうじゅ安井息軒やすいそうけん三計塾さんけいじゅくで谷と同門どうもんであったので谷あてに懇願書こんがんしょを書き、これを二人の僧が持参じさんしたとつたえられる。