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輪王寺の境内けいだいには変わった形のとうが立っています。めずらしい形をした塔ですが、これは国家の安全や、人々の幸福を願って天海が建てたもので「相輪(そうりんとう)」といいます。 江戸時代には、二荒山神社の境内に立っていましたが、明治時代に神仏分離令しんぶつぶんりれいにより現在のところに移されました。 
この大師像は、巳講帽いこうぼうという特殊とくしゅなかぶりものから年齢ねんれい推測すいそくすると六、七十歳代のお姿となります。百八歳説のある長生きのかたですから、力のみなぎった働き盛りの姿です。
慈眼大師座像じげんだいしざぞう

慈眼堂じげんどう

「天海の墓」
天海は、1643(寛永かんえい二十)年108歳で寛永寺で亡くなりました。彼は遺言ゆいごんで日光の大黒山に埋葬まいそうされました。後にそこには天海廟てんかいびょう慈眼堂じげんどう」が建てられました。彼の死後、朝廷は「慈眼大師じげんだいし」の称号しょうごうを贈りました。大師の称号は、最澄さいちょう(伝教大師)や空海くうかい(弘法大師)円仁えんにん(慈覚大師)以降700年間おくられなかったもので、天海の偉大いだいさを明らかにしていると思われます。また、三代将軍家光公は天海をしたうあまり、死んだら天海のそばに埋めるよう遺言ゆいごんをしたといわれています。天海の墓所ぼしょは慈眼堂の裏にあり、大きな石を用いた立派なもので、ひっそりとたっています。