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東照宮とうしょうぐう天海てんかい
家康公いえやすこうは、1616年(元和2)駿府城すんぶじょう(今の静岡市)でくなります。このとき、家康公は遺言ゆいごん一周忌いっしゅうきを過ぎたら日光に神廟しんびょうをたて、関八州かんはっしゅう鎮守ちんじゅにすることを命じています。そして、家康公の葬儀そうぎは天海の指図で行われ、朝廷から神号を下されるときも天海の意見で「東照大権現とうしょうだいごんげん」ということに決まりました。
幕府ばくふ東照社とうしょうしゃ(後に東照宮と呼ばれるようになる。)の建設をはじめますが、これも天海の指示でおこなわれました。617年(元和3)4月、家康公のひつぎ久能山くのうさん(今の静岡県から日光に移され東照社が開かれることとなりました。東照宮は、家康公のまごの家光公のころにおおがかりな造り替えがおこなわれます。(寛永かんえい大造替だいぞうたい) そのために全国から大勢おおぜい職人しょくにんたちが集まり、その人たちが住んでいたところが今の石屋町いしやまち匠町たくみちょう板挽いたひき町・大工町だいくちょうとなったのです。天海の手がけた東照宮の建設が今の日光に大きな恵みを与えたといっても過言ではないと思います。なお、天海は生前、門前町に御幸町ごこうまちという名 前をつけています。
東照宮陽明門

匠町たくみちょう町名改称之碑ちょうめいかいしゅうのひ