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天海は日光山の貫主かんすとなり、当時おとろえていた日光山を復興ふっこうし、その後、東照宮をおまつりするために大きな働きをしました。今、国際的こくさいてきな観光地となり、「日光の社寺」が世界遺産せかいいさん登録とうろくされましたが、もし日光山に東照宮ができていなかったら、どんな日光になっていたでしょうか。そのように考えてみると天海は日光にとって大変大きな遺産を残してくれた人といえるのではないでしょうか。天海大僧正は、今の山内に建てられている神社やお寺の土台を作りました。 それで、日光を立て直した恩人ということで中興ちゅうこうといわれているのです。

天海と徳川家康公とくがわいえやすこうが出会ったのは1590年(天正てんしょう18)だったといわれていますが、1607年(慶長けいちょう12)ごろには家康公の相談役そうだんやくになっていたようです。天海が日光とかかわりを持つのは1613年(慶長けいちょう18)で家康公に第五十三代日光山の貫主かんすとしてえらばれてからのことです(天海68歳)。この以前の日光山は、京都の比叡山ひえいざんとならんで天台宗てんだいしゅうの本山として多くの人々の信仰を集めていましたが、北条ほうじょう氏に味方したために豊臣秀吉から足尾以外の寺の領地りょうちをすべてうばわれてしまい、僧の数も大変少なくなっていました。幕府は関東を守るために日光山を大変重要じゅうようなものと考えたようで、天海は幕府の考えを。受けて日光山再興さいこうの仕事を行いました。そして東照宮はもとより日光の(二荒山神社)の再建、二十院八十坊の復興ふっこうなどに努力しました。