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○勝道上人は、なぜ日光山(男体山)に登ろうと決意したのでしょう?

<明星天子をまつった星の宮>
 勝道上人は、今から約1250年前の735年(天平(てんぴょう)7年)に、下野ノ国(しもつけのくに)(栃木県)芳賀郡(はがぐん)に生まれました。幼い頃の名前を藤糸丸(ふじいとまる)といい、たいへんかしこく信仰心(しんこうしん)(仏様を信じる心)の厚い子供でした。
 ある夜のこと、眠りについた藤糸丸の前に神様(明星天子(みょうじょうてんし))が現れ、「山川を歩いて日光の三神(さんしん)に会い、人々を救え。」と告げたといわれ、このことが日光を開く動機になったと伝えられています。
男体山(とちょう)登頂への道はけわしかった・・
 勝道上人は、767年(天平神護(てんぴょうじんご)3年)と781年(天応(てんおう)元年)に登頂をめざしましたが、山頂への道はけわしく、頂上にたどりつくことはできませんでした。
 勝道上人は、2回の失敗にもめげず、翌年の782年(延暦(えんりゃく)元年)、上人が48歳の時、ようやく登頂に成功しました。それはなんと、上人が男体山登頂を志してから16年後のことでした。
 そして、勝道上人は山頂に日光の神々をまつるとともに、中禅寺(ちゅうぜんじ)(今の二荒山神社中宮祠)を建てました。

<中禅寺湖から見た男体山>
コラム なぜ山に登るの?
 この頃から、「山岳信仰(さんがくしんこう)」といって、深い谷を渡り、神々の住むといわれる高い山に登り、苦しい修行を重ねて仏のさとりをひらこうとする仏教の修行が盛んになってきたということです。
○勝道上人、日光にねむる・・・

<開山堂>
 日光を開いた勝道上人は、817年(弘仁(こうにん)8年)83歳でなくなりました、勝道上人のお墓は、仏岩谷(ほとけいわだに)開山堂(かいざんどう)境内(けいだい)にありますが、中禅寺湖(ちゅうぜんじこ)にある上野島(こうづけじま)と、竜頭(りゅうず)の滝近くの瑠璃ガ壺(るりがつぼ)にも、分骨されていると伝えられています。そして、今も日光の地を守っていると言われています。
<勝道上人のお墓>