輪王寺と朝鮮通信使との関わり

 さんだいしょうぐんとくがわいえみつは日本の船がかいがいに出ることをきんし、外国から来ることもことわりました。このだいに、日本がこうりゅうした外国は、中国とオランダ、りゅうきゅうちょうせんかぎられ、中でも「つうしんの国」と呼ばれた琉球と朝鮮とは貿ぼうえきとともにがいこうおこなっていました。
 だい、朝鮮通信使が日本に来たのは、合計12回になります。そのうちのC〜E回目にたる、Cかんえい13年(1636年)、D寛永20年(1643年)、Eめいれきがんねん(1655年)の3回、にっこうさんにおまいりに来ました。三代将軍家光がたいゆういんとして日光にまつられると、E回目の明暦元年にはとうしょうぐうだけでなく、大猷院にもしきを行うために322人の通信使が来ました。
 明暦元年の通信使が大猷院におくったかずかずしなは、ちょうこくおうヒョジョンざい:1649年〜59年)のがくをはじめ、おおはなむしろがっとうろうなどが、輪王寺にこんにちまでつたえられています。これらは、とうの朝鮮文化を伝える上でもちょうしなばかりです。

朝鮮通信使が輪王寺に伝えた宝物

(日光山輪王寺ぞう

朝鮮国王孝宗親筆しんぴつ額字

朝鮮国王孝宗親筆

 この額字は朝鮮国王の孝宗が書いたものです。ここには『靈山れいざん法界ほっかい崇孝浄院すうこうじょういん』と書かれています。靈山法界崇孝浄院とは、日光大猷院(靈山法界=日光、崇孝浄院=大猷院)のことです。その意味は、ほとけまつせいなる山「靈山」に、将軍 しょうぐん家綱いえつなが父のために寺を建てた孝行こうこうをあらわしています。(大瀧おおたきリ子はるこ氏)