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B日光を守った板垣退助いたがきたいすけ
日光の山内さんない戦火せんかまれようとしていました。旧幕府軍きゅうばくふぐんは日光を根拠地こんきょちとして今市あたりまで進出していたからです。討幕軍とうばくぐん土佐藩士とさはんしひきいる板垣退助は、土佐藩が代々だいだい徳川家のおんをうけていることや、家康公いえやすこう功績こうせきを思い、その霊廟れいびょう(※)のある日光山を戦火にかけることをけたいと考えていました。このような考えをもったのは、板垣だけではありませんでした。旧幕府軍の大鳥圭介おおとりけいすけ、討幕軍の谷干城たにたてき日光山にっこうさん僧侶そうりょたち、そして徳川家の恩を受けていた多くの人々ひとびと努力どりょくにより、旧幕府軍は日光山を会津あいづ撤退てったいすることになったのです。
これにより、日光山は戦火をまぬがれることとなり、今の美しい日光として残ることができたのです。
こうした板垣退助の功績をたたえ、日光に銅像どうぞうてられているのです。

コラム 銅像について
昭和4年に、板垣退助の銅像がつくられました。題字だいじ慶喜よしのぶの跡をいだ徳川16代宗家そうけ(※)徳川家達いえさとが書いています。しかし、昭和19年太平洋戦争のときに、この銅像は国にし出されました。現在げんざいのものは昭和42年に再建さいけんされたもので、板垣退助の娘夫婦むすめふうふにより除幕じょまくされました。この銅像の原寸大げんすんだい木型きがたが日光中学校に保管ほかんされています。

※霊廟(祖先そせんの霊をまつった建物たてもの
※宗家(一ぞくの中心となる家)