『大猷院のはじまり』大猷院の施設家光廟大猷院配置図大猷院Q&Aその1大猷院Q&Aその2

大猷院たいゆういん』のはじまり

大猷院とは、正しくは「大猷院廟たいゆういんびょう」といいます。「びょう」というのは、先祖せんぞれいをまつったおどうのこと(おはかともな拝礼はいれい施設しせつ)です。
江戸幕府えどばくふの三代目の将軍しょうぐんである徳川家光公とくがわいえみつこうくなった時に、当時の天皇てんのう後光明天皇ごこうみょうてんのうから「大猷院」という法号ほうごう(亡くなってからいただく名前)をいただきました。つまり、「大猷院廟」は家光公のお墓といえます。
 家光公は、おじいさんにあたる家康公いえやすこう(江戸幕府をひらいた人)を心から尊敬そんけいしていました。1651年(正保しょうほう4年)、48さいわかさで亡くなりますが、亡くなる間際まぎわに「自分が死んだ後も東照大権現とうしょうだいごんげん(家康公のこと)におつかえする。」という遺言ゆいごんのこしました。 そうして、1年2ヶ月後の1653年(承應じょうおう2年)に「大猷院廟」は完成かんせいしました。大猷院廟と呼ばれたのは明治以降で、江戸時代には「御霊屋おたまや」と呼ばれていました。
「大猷院の意味」
ゆう」という言葉ことばには「はかりごと」「道」という意味があります。
「はかりごと」とは政治せいじのことで、大猷とは大きな政治をしとげたという事です。大猷院とは「大きな政治をなさった方」ということになります。
家光公について
 江戸幕府を開いた徳川家康公の子秀忠公ひでただこうとお江与えよかた織田信長おだのぶながいもうといちの子であり浅井長政あざいながまさ三女さんじょ浅井逵子あざいみちこ)との間に生まれました。家康公をしたい、東照宮とうしょうぐう大改修だいかいしゅうを行って、ほぼ現在げんざいの東照宮の形につくりえたのが家光公です。